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住吉村(すみよしむら)は、1889年(明治22年)4月1日から1950年(昭和25年)4月1日に神戸市と合併するまで存在した村である。
村域は現在の東灘区住吉本町、住吉東町、住吉宮町、住吉南町、住吉浜町、住吉山手、渦森台、
住吉台、鴨子ヶ原の一部および灘区六甲山町の一部に相当する。
1889年(明治22年)、政府より前年に公布された「市制・町村制」の施行に基づいて、
現在の神戸市東灘区の前身である御影町、住吉村、魚崎村、本庄村、本山村の五つの町村が誕生した。
日本最大の経済都市であった大阪と東洋最大の港湾都市・神戸の中間に位置するこの地に、
明治後期から昭和前期にかけて阪神間の富豪がこぞって大邸宅を建てたことから「日本一の長者村」と呼ばれていた。
この住吉村の豪壮な邸宅群は、一つが数千坪から数万坪という単位で、芦屋市六麓荘町や大田区田園調布を遙かにしのぐスケールである。
現在も数多くの豪壮な邸宅が残る全国的にみても極めて裕福な土地柄である。
阪神間モダニズムとして知られる華やかな生活スタイルは、この住吉界隈を発祥の地として現在まで受け継がれている。



日本一の長者村、御影・住吉の成立
この地域が優れた住宅地として発展する原因となったのは、明治7年の官営鉄道の開通にともない設けられた住吉駅に起因する。
その具体的な出現は、明治30年代の中頃から、大阪の富商たちが、
大阪市内の居住環境の悪化にともない、郊外への転出を意識したことにはじまる。
明治33年、朝日新聞創刊者の村山龍平は、御影町郡家に数千坪の土地を取得する。
明治38年には、住友銀行の初代支配人であった田辺貞吉が、
住吉村反高林(たんたかばやし)に二千坪をこえる土地を取得し、
住友家の総理事を務めた鈴木馬左也も明治38年御影町郡家にかなりの土地を取得している。
この動きに呼応するように阿部元太郎(のちの日本住宅株式会社社長)は、
明治40年頃から住吉川に沿う観音林・反高林の土地の分譲を開始した。
ただ、この地域の土地所有権は住吉村に属して基本的に土地の分譲をしていなかったので、
ほとんどは、地上権の分譲ではないのかと思われる。
いずれにしてもこのような動きは、この地域の住宅地化を拒ャに進行させるものであった。
阿部元太郎が分譲した反高林の土地の一部は、のちに東洋紡績の社長となる阿部房次郎が取得している。
さらに岩井商店主・岩井勝次郎も明治38年御影町郡家兼安の土地を取得しており、
大日本紡績創業者の田代重右衛門も同45年、住吉亜雨ノ神に居宅を構えることになった。
このような人々の土地取得の規模は、単位が一千坪前後を下らないものであり、
各邸宅はいずれも豪壮な建築ばかりで、この地域にこれだけ密度が高く建つ例は、全国的にみても少ない。
このほか、この地域に建った邸宅としては、大阪茶臼山から移転してきた住友家本邸(住吉村反高林、大正14年)、
大日本紡績社長・小寺源吾邸(住吉村牛神前、大正元年)、鐘紡社長・武藤山治邸(住吉村小坂山、大正中頃)、
日本生命創業者・弘世助三郎邸(住吉村牛神、明治41年)などの和風邸宅があった。
さらに洋風邸宅を加えると、野村財閥の野村徳七邸(住吉村小林、大正10年)、
大林組社長・大林義雄邸(御影町上ノ山、昭和7年)、
野村銀行社長・野村元五郎邸(住吉村観音林、昭和7年)、
尼崎紡績の監査役で小寺源吾の養父であった小寺成蔵家を継いだ関西学院大学教授・小寺敬一郎邸(住吉村手崎、昭和5年)、
海運業の広海商事社長・広海二三郎邸(住吉村川向、昭和14年)、乾汽船社長・乾新兵衛邸(住吉村井手口、昭和11年)、
大阪の大地主和田久左衛門邸(住吉村小坂山、昭和7年)、武田薬品工業社長・武田長兵衛邸(住吉村手崎、昭和7年)、
住友義輝邸(住吉村手神東、昭和7年)などいずれも密度の高い規模の大きな邸宅群で
これらが御影・住吉の緑の多い六甲山麓の恵まれた環境のなかに点在していた。
住吉川をはさんで隣接する場所には、久原財閥総帥で日立グループ創設者の久原房之助の大邸宅があった。
これは敷地が三万坪をこえ、六甲山系から水を引き、庭内に池を配して六甲山より冷風を引き込んだ
風洞、和洋の建物、茶室、宴会場、クジャクやフラミンゴを飼った鉄骨の大鳥籠など
緑の木立に囲まれた贅を凝らした豪邸で、明治37年に建てられた。
その立地場所からして御影・住吉の大邸宅地帯の一翼をになった。
このように、この地域は明治、大正、昭和戦前期にかけて、日本で最も豊かな富を形成していた紡績業関係会社、
しかも日紡、東洋紡、鐘紡などそのなかでも大手に属する企業のオーナー・社長の私邸、三井、三菱とならぶ関西系財閥の住友の本家、
重役の私邸、そのほかにも生命保険の筆頭であった日本生命、貿易関係で近畿に本拠をおく
岩井産業、安宅産業、伊藤忠、丸紅、兼松、江商といった有力商社の社長宅、
さらには野村財閥、製薬会社、不動産業などを営む船場の富商たちが競ってこの地に私邸を構えていったことがうかがえる。



学校
阪神間が恵まれた住宅地として発展するうえで子女の教育施設の充実は、必須の要件であった。
阿部元太郎は、田辺貞吉、野口孫市らと相談し、住吉村反高林の村有地を借り受けて敷地とし、費用1万円余をもってまず、
明治40年という早い時期に私立の甲南幼稚園を開園し、翌45年に小学校を創設した。
発起人のうち創立活動に携わったのは、田辺貞吉・才賀藤吉・弘世助太郎・平生釟三郎・生島永太郎・岸田杢・阿部元太郎・
野口孫市・山口善三郎・中島保之介・小林山郷の実業家11名である。
明治45年、財団法人甲南学園の設立が認可され、理事長には田辺、理事には平生・阿部・野口・才賀・小林の各氏が就任した。
しかしまもなく財政難に陥いり、この時、平生が、上記の実業家たちのほか、久原房之助、進藤嘉三郎らの援助をえて、これを軌道にのせた。
平生釟三郎は、さらに安宅弥吉や二代目伊藤忠兵衛らの協力をえて、
大正8年に甲南中学校をいまの甲南大学の地に開校、
大正12年には尋常科(中学)4年、高等科3年の7年制の甲南高等学校へと発展させた。
他方、甲南学園の理事のひとり、安宅弥吉の尽力で、甲南高等女学校(現在の甲南女子学園)が
大正9年に設立され、理事長と校長はそれぞれ、
甲南高校の田辺貞吉、小森慶助が兼任して発足した。
甲南小学校の卒業生の男子は甲南高校の尋常科に、女子は甲南高等女学校に、
それぞれ無試験で入学し、一貫教育の実をあげた。
昭和2年には灘中学校も、地元の酒造業で灘の銘酒「白鶴」の醸造元である嘉納治兵衛らによって創立された。
この嘉納治兵衛の私邸も御影山手に和風の大邸宅として建てられていた。



観音林倶楽部
現在、甲南大学を経営している甲南学園の設立に尽力した田辺貞吉や野口孫市、阿部元太郎らは、コミュニティの大切さを思い、
明治45年「観音林倶楽部」を設立し、日本における地域コミュニティーやクラブサロン活動の先駆けとなった。
発起人には他に、野村元五郎、芥川栄助、静藤治郎らがおり、座談会、講演会のほか、囲碁、玉突、謡曲、さらには夫人らの生け花、散髪もできた。
毎年、正月には、新年の名刺交換会も開かれ、会員には久原房之助や安宅弥吉、二代目野村徳七らなど、
当時の日本で最も豊かな富を形成していた財閥、企業の所有者、社長が名を連ねてこの倶楽部を中心に日本経済が動くと言われていた。
この倶楽部は、22年間続き、解消の際には会館が財団法人住吉学園に無償譲渡されている。なお、クラブハウスの建物は野口孫市自ら設計している。




病院
さらにこの地域で重要であったのは病院の問題で、医療機関の設置は、良好な住宅形成のうえで欠かせない要件であり、
平生釟三郎もこの点に気づき、昭和9年御影の山麓台地に甲南病院が開設された。
このようにこの地域の住宅環境の整備は著しく、その発展過程は、私鉄や土地会社の経営地とは異なった方法で進められた。



合併
街の復興で戦後の歴史が始まった五箇町村も、戦後まもなく神戸市との合併問題が表面化してそれぞれの町村で論争がおこった。
1948年(昭和23年)、神戸市は五箇町村に対して正式に合併を申し入れた。
その後、芦屋市も同様に合併を同村に対して申し入れをおこなった。
御影町、魚崎町は神戸市との合併に積極的であり、戦前は富裕で独立心の強かった住吉村も合併を考え始めていた。
しかし、神戸市との合併により地域の主体性が無くなることを心配した住民の中に、
五箇町村が一緒になって新しい市(甲南市あるいは灘市)をつくるという構想が生まれ、
一時はこれに芦屋市も加わる様子を見せて複雑化させた。
結局、1950年(昭和25年)4月1日、御影、魚崎、住吉の三箇町村が神戸市と合併することになったが、
新設される区の名称について論争が巻き起こる。
三箇町村はこのあたりが本来「灘」の中央部であることから、「灘区」にすべきであると主張したが、
すでに神戸市は西隣りに「神戸市灘区」を持っていることから問題となった。そこで、この「灘区」を「西灘区」とし、
こちらを「灘区」にすべきであるという意見が飛び出し、「本灘区」にせよという意見まで出たのである。
結局、神戸市長による一任で決まった名前が「灘区」の東ということから「東灘区」ということであった。
残る本庄、本山の両村でも住民投票やリコール運動の末、1950年(昭和25年)年10月10日、神戸市と合併し、
現在の東灘区の区域が成立した。
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